平成16年8月20日
◎ 「日本全国8時です」の舞台裏

「せっかくの夏休みなのですから、何か What's New に書いて下さいよ」と黒田にせっつかれたものの、これといった文面も浮かばず、「それならば――」と前回(8月 14 日)放送のTBSラジオ「日本全国8時です」の舞台裏を少々。
 おかげさまで通算「 329 回」を迎えましたこの日の内容ですが、次週は何を放送するか、何週間も前から少しずつ準備をして、あるいはフイに閃いて、最終的には放送の前の週の番組終了後に決定をいたします。
  先週、放送終了後に「オリンピックのムダ知識」をやることになり、いろいろと調べた結果、以下のようなメモをTBSラジオの担当者に送信しました。下原稿のようで恐縮です。

@幻のオリンピックは、ムッソリーニの武士道への感動で決定した !?

 昭和五年( 1930 )の秋、国際電気工学会に出席したスウェーデンのエドストローム(国際陸上競技連盟の会長・IOC委員)に、日本の国際陸上競技連盟の会長でIOCの委員でもあった早大理工学部長の山本 忠 ( ただ ) 興 ( おき ) (テレビの創始者)が、
「もし日本が希望すれば、東京オリンピックは開かれるだろうか?」
  と尋ねた。二人はともに、電気工学を通じた友人。公式に日本人が、オリンピック招致を発言した最初といわれている。
  事前に、東京市長・永田青嵐( 秀 ( ひで ) 次 ( じ ) 郎 ( ろう ) )からの打診が山本にあった。
  昭和 15 年( 1940 )に、東京で万国博覧会を開くことがすでに決定していた。
「不可能ではないが、非常にディフィカルトだ。しかし、努力してみたらいいだろう」
  とエドストローム。
  紀元 2600 年=昭和 15 年( 1940 )に、万博と同時にオリンピック開催をもくろむ日本にとって、競争相手国は二つ。フィンランド(ヘルシンキ)とイタリア(ローマ)。とくに、イタリアが強敵だった。
  IOC委員でもあった杉村 陽 ( よう ) 太 ( た ) 郎 ( ろう ) 大使(柔道)が、イタリアの独裁者・ムッソリーニに働きかけたが失敗。次にIOC委員の 副 ( そえ ) 島 ( じま ) 道 ( みち ) 正 ( まさ ) (副島 種 ( たね ) 臣 ( おみ ) の息子)=バスケット協会の会長が、ムッソリーニと会うことに。ところが興奮のあまり、副島はムッソリーニの前で卒倒してしまった。
  それをムッソリーニが勘違いする。
「こんなに命を投げ出してまで、日本にオリンピックを持っていきたいのか」
  彼は感動し、その武士道精神をたたえ、それならこちらも武士道精神を見習って、東京にオリンピックを譲ろう――東京はヘルシンキとの決選投票の結果、 36 対 24 で勝利した。
  昭和 11 年( 1936 ) 12 月、東京大会の組織委員会が発足。会長に徳川家十六代の 家 ( いえ ) 達 ( さと ) が就任。しかし、強まる軍国主義を危ぶんだIOCは、カイロで総会を開く。この時、日本を代表して出席したIOC委員の嘉納治五郎は、懸命の弁明につとめ、ここに東京開催が最終的に決定した(その帰途、嘉納は船の上で肺炎で死去している)。
  ところが、日中戦争は拡大をつづけ、
「この時勢にオリンピックなど不適当だ」
  と軍部が開催に、猛反対するようになって、昭和 13 年( 1938 )7月 15 日の閣議で、
「東京オリンピック大会の開催は中止されたし」
  との勧告が出、翌 16 日、組織委員会はこれを受諾し、返上を決定した。
  大正5年( 1916 )のベルリン(第一次世界大戦の前)についで、日本は2度目のオリンピック返上をしてしまう。そのため、昭和 23 年( 1948 )の第 14 回ロンドンオリンピックに、日本は招聘されなかった。一種の除名処分であったといってよい。
  もっとも、第 12 回は東京からヘルシンキに移ったが、 13 回=昭和 19 年( 1944 )のロンドン大会とともに、第二次世界大戦のために流れ、 1936 年から 1948 年の 12 年間オリンピックは開かれることがなかった。
  オリンピックはまさに、平和の象徴といえるかもしれない。

A「五輪」は宮本武蔵の『五輪書』から作られた創語だった !?

 幻の第 12 回東京オリンピック=昭和 15 年( 1940 )が決まり、日本の新聞社はいずこも、「オリンピック」の6文字が長いことに困惑する。当時、読売新聞の運動部記者であった川本 信 ( のぶ ) 正 ( まさ ) もその一人。見出しがつけにくい、と整理部もいう。
  では、と「国際運動」と書いて「オリンピック」と仮名をふってみたり、「国際 運 ( ヽ ) 競 ( ヽ ) 」としてみるが、今一つピンとこない。
  さて、と思いつつシンボルマークをみれば、5つの輪となっている。
  たまたまこの頃、『文芸春秋』に菊池寛が宮本武蔵のことを書いていた。武蔵は強いか弱いかの、有名な論争であったが、そういえば宮本武蔵の著書に『五輪書』というのがあった。「オリン」と「ゴリン」――共に語呂はいい。「五輪」と書いてオリンピックとルビをつけた。
  そもそも「五輪」は仏教用語で、地・水・火・空・風――万物を創る元素、宇宙一体を示す言葉だった。これはオリンピック精神、東洋思想とも一致する。そう思って使用した、と『昭和史探訪・三巻』の中で、川本自らが回想している。

B東京五輪のレスリング成功は「剃るぞ!」の一言にあった ?!

 昭和 39 年( 1964 ) 10 月、東京オリンピックで日本はレスリングにおいて五個の金メダルを獲得した。
  この大成功は、日本アマチュアレスリング協会の会長・ 八 ( はっ ) 田 ( た ) 一 ( いち ) 朗 ( ろう ) のスパルタ教育の成果でもあった。前回のローマ五輪で金メダルゼロとなったレスリングは、八田の命令で帰国後に結婚をひかえていた選手をのぞいて、役員・コーチ・選手の全員が丸刈り、そして、下の毛も剃って再起を誓った。この下の毛を「剃るぞ!」は、レスリング界の名物になる。
  なぜ、下の毛を剃るのか。
「生えそろうまでの3ヵ月、トイレや風呂に入るたびに反省するだろう」と八田。
  このほかにも、「ライオンとにらめっこ」――上野動物園まで選手にランニングをさせ、檻ごしににらめっこをさせた。ライオンから危険距離の測り方を学ぶためだったが、ライオンは居眠りして、なかなか選手たちと目をあわせてくれなかったという。
  このほか、いつでもどこでも寝られる訓練。これは夜中に選手をたたき起こして顔を洗わせて、またすぐ「寝ろ」と布団へ。あるいは、電灯をつけたまま、マットで寝る訓練をさせた。
  どんな悪条件でも、寝られる神経の太さを育成しようとした。
  左右平均論――右利きに左手で箸を使わせ、左手で書道をさせる。左右どちらからでも同じように技をかけられるように。
  自己暗示――「ポールに日の丸が揚がる夢(金メダル)を見ろ」とハッパをかけた。
  最後のひとふんばり=「根性」。戦後のヘルシンキ五輪に、唯一の金メダルはレスリングバンタム級の石井 庄 ( しょう ) 八 ( はち ) であった。日本レスリングはこれまで通算で 28 個の金メダルを獲得している。ただし、ソウル五輪の2個を最後に遠ざかってしまった。
  なお、アテネ五輪で金メダル有望の日本女子レスリング、その最大の敵とされるアメリカの女子チームのコーチは、八田一朗の次男で、かつて全米チャンピオンともなった八田 忠 ( ただ ) 朗 ( あき ) がつとめる。

C日本のマラソン選手で、世界最長 54 年8ヶ月6日と5時間 32 分 20 秒を出した人がいた !!

 明治 42 年( 1909 )、IOC(国際オリンピック委員会)から日本へオリンピック参加の呼びかけがもたらされる。
  ときの東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長・嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)は、すぐさま「大日本体育協会」を創設。次の第五回ストックホルム大会へむけて、出場選手を募る。 100 メートル、 200 メートル、 400 メートルに、三島 弥 ( や ) 彦 ( ひこ ) (東京帝国大学の学生)が決定。マラソンに 金 ( かな ) 栗 ( ぐり ) 四 ( し ) 三 ( ぞう ) (東京高等師範学校の学生)が決定した。金栗は2時間 32 分 45 秒のタイムを持ち、当時の世界記録を 27 分も上回っていたとも。
  明治 45 年( 1912 )5月 16 日、2人の選手は新橋を出発。シベリア経由でストックホルムへ。「NIPPON」とかかれたプラカードを金栗が持ち、日章旗を三島がもって入場行進した。
  三島は、 100 、 200 メートルともあっさり予選落ち( 400 メートルは準決勝で棄権)。
  さて、期待の金栗――8キロまでトップ、ところが 18 キロで棄権してしまう。食欲不振と睡眠不足に熱射病が加わったのが原因。近くの民家で介抱を受けた金栗は、そのままここに一泊して、次の日に宿舎へもどった。そのため、「消えた日本人」と評判になったのである。
  それが 55 年後の昭和 42 年( 1967 )に、ストックホルムでスウェーデン・オリンピック委員会による、「オリンピック開催 55 周年記念式典」が催され、これに金栗が招待された。
  出席した金栗は、案内されて、思い出のトラックのゴール手前 10 メートルに立った。彼は、いわれるままにゴールまで走り、両手でテープを切った。
  すると場内アナウンスが響く、
「日本の金栗選手です。記録 54 年8ヶ月6日5時間 32 分 20 秒。これで第5回オリンピックのマラソンは完全に終了しました」
  いずれにせよ、オリンピックのマラソンで世界一遅い記録といえよう。
  スウェーデン・オリンピック委員会の 粋 ( いき ) な 計 ( はか ) らいに感動した金栗は、記者会見で語ったものだ。
「やれやれ長い道中でごわした。途中で孫が5人もできましたよ」
  この人は昭和 58 年( 1983 )、 92 歳まで生きた。

Dアベベは2人いた !?

「オリンピックのマラソンにおいて、2連勝はありえない」
  といい切ったマラソンの名選手ザトペック。ところが、この不可能をみごとに成しとげた男がいた。エチオピアのアベベ・ビギラである。
  ローマオリンピックの 17 日目、昭和 35 年( 1960 )9月 10 日の午後5時 32 分、 酷 ( きび ) しい日中の残暑を避けてスタートした、オリンピックの陸上競技最後をかざるマラソン。いきなりアベベは、2時間 15 分 16 秒2の世界新記録を出す。
  各国の記者団は、顔面蒼白となった。数日前の1万メートルで 29 分0秒8で走っていたこと。マラソン歴がたったの2回であること。それ以外は不明の、ノーマークの選手であったからだ。これまでのアベベの最高タイムは、2時間 21 分 23 秒でしかなかったから無理はない。
「ハダシで走っている」――センセーショナルとなった。
「ハダシの王者アベベ」といわれるようになる。
  彼を育てたのは、スウェーデンの元陸軍大佐オンニ = ニスカネン。エチオピアに招かれて同国陸軍の体育コーチをつとめ、アベベを見出す(ローマオリンピック当時、ニスカネンは 49 歳)。
「ハダシでいくか、クツをはくか?」「前半は先頭集団から遅れぬ程度で、 30 キロまで先頭にでてはならない」「モロッコのラジとソビエトの全選手をマークせよ」――ローマでのニスカネンの指示はこれだけだった。
  つづく昭和 39 年( 1964 )の東京オリンピック――アベベは 32 歳。しかも、大会の1ヵ月前に盲腸の手術をしていた。ところが、2時間 12 分 11 秒2。再び、世界最高の記録を出す。
  ただし、ハダシではなかった。
「もう一度、走れといわれれば走りますよ」
  彼は、エチオピアのハイレ=セラシェ皇帝の親衛隊――その一兵士にすぎなかったが、オリンピックの後、エチオピア最高の勲章の一つ「メネリク十字章」を贈られる。
  また、陸軍用ナンバーのフォルクスワーゲンを1台もらった。2階級特進で軍曹から少尉へ。
「強敵? わたしは自分の前をほかの選手が走ったのを知らない。だから強敵とはどういうものか、理解できない」( 36 歳で挑んだ、メキシコオリンピックの試合直前インタビュー)
  しかし、3連覇はさすがにならなかった。
「アベベが歩いた!」―― 16 キロ付近。そして、リタイア。彼の成績は 1960 年から9年間で、 15 回のレースを走り、優勝 12 回、棄権2回、5位1回という驚異的なものであった。
  この時、金メダルは同じ国のマモ=ウォルデが獲得したが、記者会見の最初の質問は、
「アベベはどうしたんだ」 であった。
  この失礼な第一問に対して、マモはむっつりした顔で、
「1年前から病気だった。4日前からは、練習も休んでいた。きょうは出場するのも無理なくらいだった。だから、途中で走れなくなってしまったのだ」 と答えた。
  ようやくマモ自身への質問に移ったが、すぐまた話題はアベベに。
「いま、あなたとアベベとはどちらが軍隊で位が上か?」
「アベベは中尉、自分は軍曹だ」
「今度の優勝であなたの方が上官になるのか?」
「いや、そんなことはない。彼はオリンピックで2度優勝している。自分は1回なのだから」
  マモは 35 歳。アベベは 36 歳。
  影のうすかったマモだが、もっとかわいそうだったのが、ローマ大会のとき、もう1人いたアベベであろう。
  ローマオリンピックの前、エチオピアでマラソンの国内選考会が行われたとき、実はアベベは2位だった。この時、1位となったのが、アベベ・ワギラ。アベベの兄だとか、従兄弟だとかいわれてきたが、どうもあかの他人らしい。この人はローマで7位と健闘したが、当時も注目されず、いまや完全に忘れられてしまっている。
  ちなみに、「アベベ」は姓ではなく名前。エチオピアでは名前の下に父の名前をつける習慣があった(「ビキラ」はアベベの父の名前)。女性は結婚すると、自分の夫の父の名前を下につけた。アベベの父は、ビイキラ・デムシー。これで兄弟でも、従兄弟でもないことが知れる。
  昭和 44 年( 1969 )3月 23 日(日曜日)、深夜 11 時ごろ、皇帝からもらったフォルクスワーゲンを運転していたアベベは、道路の真ん中を走ってきたジープのライトに目がくらみ、ハンドルを切りそこねて溝へ落ち、意識不明となる。ここがアジスアベバ郊外 75 キロの砂漠の道路であったため、発見が遅れた(翌朝午前8時ごろ)。
  第七 頚 ( けい ) 椎 ( つい ) がはずれ、全身マヒの重傷。車イスの生活になったが、アベベは懸命にリハビリに取り組む。「走る哲人」「黒い苦行僧」と呼ばれたスポーツマンのアベベは健在だった。
「(車イス生活の)事実を知ったとき、私がまっさきに思ったのは、生きているだけで幸せだ、ということだった。ことの初めから、すべての現実を徹底的に受け入れようと思った。むしろ、忍耐と勇気が 要 ( い ) る。だが、いくら苦しんでも、よろこんで立ち向かうだけだ」
「将来のことは神の手にある。だれでも明日死ぬかもしれない。だが、私は完全に治すために努力する。できるかどうか、それはわからない。だが、私は自分を立派な兵士だと信じている。立派な兵士はどんな困難も克服せねばならないものだ」
  入院中のロンドンの、病院で開かれた身体障害者だけの小さなオリンピック=パラリンピックへ、アベベは出場。洋弓競技に出ている。
  昭和 46 年( 1971 )4月、ノルウェーで開催された身体者スポーツ週間の催しにも、アベベは参加している。防寒服に身をかため、彼は犬ぞりレースに出場して見事、優勝していた。
  それから2年半後、昭和 48 年( 1973 ) 10 月 25 日、アベベはこの世を去った。享年は 41 。
  アベベが忠誠をささげたハイレ=セラシェ皇帝は、翌年( 1974 )、軍事政権の誕生によって、帝位を追われ、さらに昭和 50 年( 1975 )8月にこの世を去っている。
  このメモをもとに、TBS担当の若山浩さんが台本を作成。それが筆者の事務所にFAXされ、内容によっては深夜の電話による、再度の打ち合わせをするわけです。ちなみに、実際に放送(8月 14 日)に使われたのは、メモのうち@ABだけでした。CDはまだ調査の必要があり、あとまわしにさせていただきました。
  わずか 15 分程の番組ですが、舞台裏ではけっこうまじめに、できるだけ精度の高い、間違いの少ない内容にすべく、史料調査も含め、許される時間のギリギリまでくり返し対象を調べています。
  1回の放送で、ものによっては1冊の本が書けるだけの調査をいたしますが、聞いていただけるのは、わずかに 15 分。その 15 分に、筆者は中村尚登さんと竹下栄梨子さんの力を借り、凝縮した内容を、ラジオを聞いて下さる方々にお届けするようにと心がけています。

(加来耕三 平成 16年8月20日)

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